佐々木俊尚氏・新著『時間とテクノロジー』、読了
それはまるで小さな旅の始まりだった。
この本の冒頭を読んだとき、そう思った。
例えて言うなら、茫洋とした海の中で行先のわからない小舟にポツンと一人で乗せられたような気分。
けれど不思議と不安や焦燥感はなかった。
行き先が分からないのは、これまでの私が手に入れている地図ではいけない場所だから。
今までの認識ではきっとたどり着けないと、直感的に思ったから。
私が旅だと感じたのは、きっとそのせいだ。
『時間とテクノロジー』
佐々木俊尚氏の新著。
著者の本はすべて拝読してきたけれど、今回の一冊ほど重層的かつ広大な本はなかったように思う。
そして極めてスリリング。
どこまでも果てしなく、時間と空間を縦横無尽に行き来する。

「未来はあなたの前にあるのでしょうか?それとも後ろにあるのでしょうか?」
この謎かけのような、問い。
冒頭のこの問いかけは、まさにこの一冊を象徴し、私たちの今を象徴している。
テクノロジーの進化は、時間と空間の概念を変えた。
その事実は、今や誰もが知っている。
ある地点を境に世界観が変わった、私たちはそう認知している。
けれど、それがどのように変遷してきたのか?
なぜその変化や改革が起こったのか?
そしてそれはどこへ行きつくのか?
その答えは、まだ誰も知らない。
私の知り合いの中学生が作文でこんな風に書いていた。
「スマホを持ったことで正解をすぐに探し出し、自分で考える力が弱くなっていると
中学生でもこの世界が何か移り進んでいることを切に感じているし、多感な時期だからこそ余計にそう思うのかもしれない。
きっとみんな、どこか不安なんだと思う。
テクノロジーの進化で得られた便利さと引き換えに、身体感は薄らいでいく。
重たい機材を運ぶ必要も、コードをグルグル巻きとる不便さも、とうの昔に過ぎ去ってしまった。
私が、「いまここ」にいることを、どうやって感じればいいのか。
世界と「いまここ」でつながっている感覚が、希薄になっているからかもしれない。
みんなが漠として抱いている不安。
この一冊は、きっとその答えをくれる。
すべてではないかもしれないけれど、確実に何かを照らしてくれる。
これまでのテクノロジーの変遷や進化の過程、そして人間の認知の変化を物語というメタファーに落とし込み、
巧みに解析してくれている本書は、新しい哲学を提示してくれている。
そして理論的であり抒情的な文章は、まさに心地よいインターフェイスだ。
文字と自分という隔たりを感じさせず、スッと意識の中に溶け込んでいく。
“読む”、という行為も時に“摩擦”を生じる。
頭に入りにくい文章は、引っ掛かりを感じてなかなか進まない。
この本には、それがない。まさに“なめらかな没入”。
しかし時折挟まれるエピソードは、まさに心地よい摩擦として意識をピン止めする。
まるでなめらかに流れていってしまう無意識という河の流れの中で、意識というブイを立てそこに留めおくように。
本書の中で、“なめらかな没入”と“摩擦”がキーワードとして登場する。
これがテクノロジ―の進化と身体感覚との大きなカギになっている。
身体を扱う仕事をしている私にとって、この身体感覚の在りようは、非常に興味深い。
そしてテクノロジーの進化は、身体感覚について決して投げ出したりしないのだろう。
人間の根源にある「つながりたい」という欲求は、普遍だからだ。
リアルな身体感覚が希薄になるかもしれないという不安感はつねにつきまとい、
それがある種のブレーキとして作用することもまた事実なのかもしれない。
だからこそ、それを補完しようとする機能が無意識的にはたらく。
カセットテープで音楽を聴くような、レコードの針を置くような、ある種の手間という“摩擦”を含む行為は
淘汰されることはなく、愛すべきものとして存在し続けるのかもしれない。
私たちは、進化を漫然と享受するのでも、不審がって拒否するのでもなく、あるいは流されるのでもなく、
知らなければならないのだと思う。あるいはその努力、知ろうとする努力が必要なのではないか、と。
これは教育などの分野においても、今後は大きく発展していくのだろう。
2020年度は予備校や学習塾などの教育業界においてもAI教育元年になると言われているそうだ。
AI教育の利点は、人間では気づけないインプットの際の落とし穴を見つけて指摘してくれること。
どこがわかっていないのか、どこに戻ればいいのかをAIの知能が見抜き、教えてくれる。
しかしアウトプットの時には誰もそばにいてくれない。
このあたりは、今後のAIを考えるうえでも、大きなテーマになるのかもしれないと思った。
冒頭の問いかけ。
未来の在りどころ。
『因果の物語』から『共時の物語』へ。
過去の因果律では解きほぐせない今の世界観を、『共時』という概念はきっと照らし出してくれる。
テクノロジーの進化は、距離と時間、空間の概念を変える。
そこにあったのは「つながりたい」という切なる願い、それが進化のモチベーションだったのだと思う。
物理的な距離を英語に訳すと『physical distance』、つまり肉体の距離。
スペインに住んでいる私の友人は、かつて日本にいた恋人とは移住がきっかけで別れてしまったと話してくれた。
「やっぱり遠距離恋愛だと、メールとかスカイプとかでも限界があるのかな」という私の問いかけに、
彼は突然私の手をぎゅっと握り「こういうことなんだよ」と、私の目を見て切なそうにつぶやいた。
ドキリとしたと同時に、ものすごく切なくなった。
ああそうか、触れられないのか、と。
人と人、まして恋人同士がお互いに触れ合えないのがどれほど辛いことか。
「あの当時大学生だったから、もっと色々なものが進化していて彼女と密接にコミュニケーションができたらと
どれほど願ったことか。」そんなふうに話してくれた。
『physical distance』
この言葉にテクノロジーの未来は、どういう解を持つのか。
そして『共時』という新たな時間軸で、私たちはどこから未来へ入っていくのか。
この本を貫いている哲学は、これからの時代の羅針盤として私たちを導いてくれる光になるだろう。
ただ、その羅針盤を使うのは、私たち一人一人だということを忘れてはいけないのだと思う。
冒頭の問いかけ。
未来はどちらにあるのか?
人間は直立しているけれども、元々の四つ足歩行の身体機能を備えているし、その運動原理は変わらない。
つまり背中(背面)を運ぶことで、前に進んでいる。
四つ足になって考えてみる、進むべき背中は上にある。
とするならば。
未来は後ろからやってきて、背中に乗せて前に運ばれるのではないだろうか。
テクノロジーという翼を背中に携えて、因果から解き放たれて、過去や未来、
前や後ろという意識にも縛られずに新しい時間と空間の概念を手に入れて運ばれていくのかもしれない。
ただ “生きていく” というシンプルでリアルな真実とともに。
そして、この一冊とともに。
この本の冒頭を読んだとき、そう思った。
例えて言うなら、茫洋とした海の中で行先のわからない小舟にポツンと一人で乗せられたような気分。
けれど不思議と不安や焦燥感はなかった。
行き先が分からないのは、これまでの私が手に入れている地図ではいけない場所だから。
今までの認識ではきっとたどり着けないと、直感的に思ったから。
私が旅だと感じたのは、きっとそのせいだ。
『時間とテクノロジー』
佐々木俊尚氏の新著。
著者の本はすべて拝読してきたけれど、今回の一冊ほど重層的かつ広大な本はなかったように思う。
そして極めてスリリング。
どこまでも果てしなく、時間と空間を縦横無尽に行き来する。

「未来はあなたの前にあるのでしょうか?それとも後ろにあるのでしょうか?」
この謎かけのような、問い。
冒頭のこの問いかけは、まさにこの一冊を象徴し、私たちの今を象徴している。
テクノロジーの進化は、時間と空間の概念を変えた。
その事実は、今や誰もが知っている。
ある地点を境に世界観が変わった、私たちはそう認知している。
けれど、それがどのように変遷してきたのか?
なぜその変化や改革が起こったのか?
そしてそれはどこへ行きつくのか?
その答えは、まだ誰も知らない。
私の知り合いの中学生が作文でこんな風に書いていた。
「スマホを持ったことで正解をすぐに探し出し、自分で考える力が弱くなっていると
中学生でもこの世界が何か移り進んでいることを切に感じているし、多感な時期だからこそ余計にそう思うのかもしれない。
きっとみんな、どこか不安なんだと思う。
テクノロジーの進化で得られた便利さと引き換えに、身体感は薄らいでいく。
重たい機材を運ぶ必要も、コードをグルグル巻きとる不便さも、とうの昔に過ぎ去ってしまった。
私が、「いまここ」にいることを、どうやって感じればいいのか。
世界と「いまここ」でつながっている感覚が、希薄になっているからかもしれない。
みんなが漠として抱いている不安。
この一冊は、きっとその答えをくれる。
すべてではないかもしれないけれど、確実に何かを照らしてくれる。
これまでのテクノロジーの変遷や進化の過程、そして人間の認知の変化を物語というメタファーに落とし込み、
巧みに解析してくれている本書は、新しい哲学を提示してくれている。
そして理論的であり抒情的な文章は、まさに心地よいインターフェイスだ。
文字と自分という隔たりを感じさせず、スッと意識の中に溶け込んでいく。
“読む”、という行為も時に“摩擦”を生じる。
頭に入りにくい文章は、引っ掛かりを感じてなかなか進まない。
この本には、それがない。まさに“なめらかな没入”。
しかし時折挟まれるエピソードは、まさに心地よい摩擦として意識をピン止めする。
まるでなめらかに流れていってしまう無意識という河の流れの中で、意識というブイを立てそこに留めおくように。
本書の中で、“なめらかな没入”と“摩擦”がキーワードとして登場する。
これがテクノロジ―の進化と身体感覚との大きなカギになっている。
身体を扱う仕事をしている私にとって、この身体感覚の在りようは、非常に興味深い。
そしてテクノロジーの進化は、身体感覚について決して投げ出したりしないのだろう。
人間の根源にある「つながりたい」という欲求は、普遍だからだ。
リアルな身体感覚が希薄になるかもしれないという不安感はつねにつきまとい、
それがある種のブレーキとして作用することもまた事実なのかもしれない。
だからこそ、それを補完しようとする機能が無意識的にはたらく。
カセットテープで音楽を聴くような、レコードの針を置くような、ある種の手間という“摩擦”を含む行為は
淘汰されることはなく、愛すべきものとして存在し続けるのかもしれない。
私たちは、進化を漫然と享受するのでも、不審がって拒否するのでもなく、あるいは流されるのでもなく、
知らなければならないのだと思う。あるいはその努力、知ろうとする努力が必要なのではないか、と。
これは教育などの分野においても、今後は大きく発展していくのだろう。
2020年度は予備校や学習塾などの教育業界においてもAI教育元年になると言われているそうだ。
AI教育の利点は、人間では気づけないインプットの際の落とし穴を見つけて指摘してくれること。
どこがわかっていないのか、どこに戻ればいいのかをAIの知能が見抜き、教えてくれる。
しかしアウトプットの時には誰もそばにいてくれない。
このあたりは、今後のAIを考えるうえでも、大きなテーマになるのかもしれないと思った。
冒頭の問いかけ。
未来の在りどころ。
『因果の物語』から『共時の物語』へ。
過去の因果律では解きほぐせない今の世界観を、『共時』という概念はきっと照らし出してくれる。
テクノロジーの進化は、距離と時間、空間の概念を変える。
そこにあったのは「つながりたい」という切なる願い、それが進化のモチベーションだったのだと思う。
物理的な距離を英語に訳すと『physical distance』、つまり肉体の距離。
スペインに住んでいる私の友人は、かつて日本にいた恋人とは移住がきっかけで別れてしまったと話してくれた。
「やっぱり遠距離恋愛だと、メールとかスカイプとかでも限界があるのかな」という私の問いかけに、
彼は突然私の手をぎゅっと握り「こういうことなんだよ」と、私の目を見て切なそうにつぶやいた。
ドキリとしたと同時に、ものすごく切なくなった。
ああそうか、触れられないのか、と。
人と人、まして恋人同士がお互いに触れ合えないのがどれほど辛いことか。
「あの当時大学生だったから、もっと色々なものが進化していて彼女と密接にコミュニケーションができたらと
どれほど願ったことか。」そんなふうに話してくれた。
『physical distance』
この言葉にテクノロジーの未来は、どういう解を持つのか。
そして『共時』という新たな時間軸で、私たちはどこから未来へ入っていくのか。
この本を貫いている哲学は、これからの時代の羅針盤として私たちを導いてくれる光になるだろう。
ただ、その羅針盤を使うのは、私たち一人一人だということを忘れてはいけないのだと思う。
冒頭の問いかけ。
未来はどちらにあるのか?
人間は直立しているけれども、元々の四つ足歩行の身体機能を備えているし、その運動原理は変わらない。
つまり背中(背面)を運ぶことで、前に進んでいる。
四つ足になって考えてみる、進むべき背中は上にある。
とするならば。
未来は後ろからやってきて、背中に乗せて前に運ばれるのではないだろうか。
テクノロジーという翼を背中に携えて、因果から解き放たれて、過去や未来、
前や後ろという意識にも縛られずに新しい時間と空間の概念を手に入れて運ばれていくのかもしれない。
ただ “生きていく” というシンプルでリアルな真実とともに。
そして、この一冊とともに。
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