三島由紀夫展-「肉体」というsecond language
三島由紀夫。
文学界ではもちろん知らない人はいない、そして独自のイデオロギーを貫いたという観点でも非常に注目された人物。
そしてバレエで三島と言えば。
そう、あのモーリス・ベジャールが『M』という三島をオマージュした作品を作ったことで知られています。
『私は詩人(三島)を批評するのではなく、愛するためにこれを創った』
ベジャールのこの言葉の真意を知ることは決してできないのだろうけれど、
なぜこれほどまでに三島という人物は、誰かを、何かを触発するのだろうか?
そんな探求心を掻き立てられずにはいられません。
stimulation。刺激。
三島はおそらく刺激する存在だったのではないか?
感銘を受けるとか、心に響くとか、そういうポジティブな感動も、
生々しいとか、毒々しいとか、ある種ネガティブ(目をそむけたくなるという意味で)な強烈なインパクトも、
ある意味で超越して、ただシンプルに『刺激』という感触が腑に落ちる、そんな気がするのです。
良くも悪くも、刺激。
【刺激】
生物、またその感覚器官に作用してあるいはその状態を変化あるいは興奮させ、何らかの反応を起こさせること。
また起こさせるもの。
三島自身、肉体への刺激を自らに与えたときを境に、自己と作品へのattitudeが明らかに変容していく、
それは非常に興味深い過程だと感じます。
今回の展覧会は、まさにその部分に焦点をあて「肉体」というキーワードから作品の変遷を辿るもの。
肉体への意識の変化が作品へどう投影されているのか、その過程を紐解いていく試みは、スリリングなものでした。

肉体、つまり自分の身体は、つねに何らかの刺激にさらされています。
リアルな身体感覚は、誰にも何にも代えがたい、自分だけのたった一つの感覚です。
共感はできても、決して共有できない。
肉体は、ある意味で絶対的に孤独、だからこそ孤高になり得るのかもしれません。
肉体への刺激。
それはときに痛みをともなうけれど、痛みによる知覚もまた存在し、
それを感じることで自分の肉体の部分を認知できることもまた真実です。
自己認知が変わることで、世界観は変わる。
肉体への刺激を自分の人生に加えた三島。
そこから紡ぎ出す言葉が変わっていったことは、自然の流れだと私は感じました。
三島由紀夫は学校ではあまり積極的に取り上げられないでしょうけれど、
その作品に触れてみることは何かの刺激を与えてくれるのではないでしょうか。
そしてベジャールが創った『M』。これをもう一度しっかりと見直したい!と思う今日この頃なのでした。
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三島由紀夫展-「肉体」というsecond language
町田市民文学館こばとらんど
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文学界ではもちろん知らない人はいない、そして独自のイデオロギーを貫いたという観点でも非常に注目された人物。
そしてバレエで三島と言えば。
そう、あのモーリス・ベジャールが『M』という三島をオマージュした作品を作ったことで知られています。
『私は詩人(三島)を批評するのではなく、愛するためにこれを創った』
ベジャールのこの言葉の真意を知ることは決してできないのだろうけれど、
なぜこれほどまでに三島という人物は、誰かを、何かを触発するのだろうか?
そんな探求心を掻き立てられずにはいられません。
stimulation。刺激。
三島はおそらく刺激する存在だったのではないか?
感銘を受けるとか、心に響くとか、そういうポジティブな感動も、
生々しいとか、毒々しいとか、ある種ネガティブ(目をそむけたくなるという意味で)な強烈なインパクトも、
ある意味で超越して、ただシンプルに『刺激』という感触が腑に落ちる、そんな気がするのです。
良くも悪くも、刺激。
【刺激】
生物、またその感覚器官に作用してあるいはその状態を変化あるいは興奮させ、何らかの反応を起こさせること。
また起こさせるもの。
三島自身、肉体への刺激を自らに与えたときを境に、自己と作品へのattitudeが明らかに変容していく、
それは非常に興味深い過程だと感じます。
今回の展覧会は、まさにその部分に焦点をあて「肉体」というキーワードから作品の変遷を辿るもの。
肉体への意識の変化が作品へどう投影されているのか、その過程を紐解いていく試みは、スリリングなものでした。

肉体、つまり自分の身体は、つねに何らかの刺激にさらされています。
リアルな身体感覚は、誰にも何にも代えがたい、自分だけのたった一つの感覚です。
共感はできても、決して共有できない。
肉体は、ある意味で絶対的に孤独、だからこそ孤高になり得るのかもしれません。
肉体への刺激。
それはときに痛みをともなうけれど、痛みによる知覚もまた存在し、
それを感じることで自分の肉体の部分を認知できることもまた真実です。
自己認知が変わることで、世界観は変わる。
肉体への刺激を自分の人生に加えた三島。
そこから紡ぎ出す言葉が変わっていったことは、自然の流れだと私は感じました。
三島由紀夫は学校ではあまり積極的に取り上げられないでしょうけれど、
その作品に触れてみることは何かの刺激を与えてくれるのではないでしょうか。
そしてベジャールが創った『M』。これをもう一度しっかりと見直したい!と思う今日この頃なのでした。
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町田市民文学館こばとらんど
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